18歳のときでした。
長野県松本市の公立高校にかよう学生だった私(目も当てられない劣等生でした)は、友人とロックバンドをやっていました。
そんなとき、友人のひとりが「おもしろそうなLIVEのチケットが手に入ったから見にいこう」ということになり、バンドのメンバー全員で東京まで見にいくことになりました。
車で行きましたね、高校生だったのに。
バンドの仲間に一人、とても裕福な家の跡取り息子がいて(音楽の才能にも抜群なものがあり、その後、音楽関係の道に進みました)、彼の運転する高級車で出かけた記憶があります。
私はなんだかよくわからないまま、うかれて参加しました。
LIVEそのものより、みんなとそんな風に東京まで行けるということが楽しくてしかたがなかった気がします。
1979年12月19日のことでした。
場所は、中野サンプラザホール。
それが伝説のバンド、イエロー・マジック・オーケストラ(当時はまだ「YMO」などとは言っていなかったように思います)の世界ツアー「トランス・アトランティック・ツアー (TRANS ATLANTIC TOUR)」終了後におこなわれた、一夜限りの激レアな凱旋公演でした。
そしてその晩、音楽好きな高校生だった松本の少年は、イエロー・マジック・オーケストラの洗礼を受けます。
黙々とシンセサイザーの鍵盤に指を走らせる、赤い人民服姿の教授の姿は今も鮮明に脳裏に焼きついています。
もちろん高橋さんも、細野さんもほかのかたがたも、ですが。
なんだこれはというカルチャーショック。
POPで軽薄そうな雰囲気をまといながらも、心の琴線にビンビンとくる、忘れられない美しいメロディとアレンジ。
あとでレコードを買い、私がもう一度聴きたいと思った曲の多くは、坂本龍一さんの手になる曲だったと知りました。(矢野顕子さんの歌声も印象的でした。たしか「在広東少年」だったと思いますが…)
こんなに早く亡くなってしまうだなんて、あり得ないです。
寂しすぎる。
JR川越駅のストリートピアノで「戦場のメリークリスマス」弾いてこようかな。
弾けないけど笑。
あのころ私が愛した人々が、どんどんあの世へ移りはじめるようになりました。
中には坂本さんのように、いくらなんでも早すぎると思えるかたもいらっしゃいます。
私ももうそういう歳になったのだと、しみじみと思う今日この頃。
ちなみに、結城をご存じのかたならすでにご承知の「守護神」。「殺印相生格一点破格」という恵まれた命式をお持ちの坂本さんの守護神は、ズバリ「調舒星」というアートの星でした。
天から与えられた「守護神」を最大限活かして活躍された71年間だったのですね。
坂本さんのご冥福を心よりお祈りします。